水を飲めるか。

chambers

2010年02月22日 17:52

今までにたくさんの人に会った。

その出会った人たちからの影響が良くも悪くも今の自分の100%を形成している。これは自信を持って言える。
私が今動かしてる会社のひとつひとつ、そこで働いてくれているみんなに常に言う言葉がある。
「今のうちに失敗を集めよう」という言葉だ。
自分の経験から、成功した瞬間よりもむしろ失敗経験からの成長の方が、のちに大きな収穫を得る事になる。
今はひたすら畑を耕すときだ。
私もそれは同じ。畑を耕す毎日だ。自分という土地をいかにして広げていけるか、そこで実る果実のために豊かな土地を肥やせるか。
そして適度の水と適度の日照りを。

ここまで33年間生きてきて、今にしてやっとこんなに失敗が大事だったのかと痛感させられてる。
23歳の時に会社を起こし、
仲間と地に足をつけてやっとこさ歩いていたここまでの道で、
小さな成功もあったし、失敗なんてやまほどあった。
メジャーデビューを果たし、契約金含めものすごいお金の中に自分たちが置かれた時
フレンドリーに接してくる大人ほど信用できないということを学んだ。

それこそ別世界に連れて行かれた日々だ。
だけど自分を見失う事はなかった。
それは沖縄で生まれ育ち、私の目指す祖父の姿が常に自分を律してくれていたから。

私の求めるカッコよさがそこにはなかった。

「農民になりたい」それはずっと変わらぬ夢。
だけど今、すぐに農民になっても私の場合は何もできないただのおっさんだろう。
だから今は自分で決めた農民になる年齢まで、いかにして自分を高め、知識を高め、そして教えを仰げる人たちに出会えるか。
そう考えている。

おまえに一体なにができるんだ。私はいつも自分に問いかけ、自分を追い込んでる。

今は、成功か失敗か、をジャッジしてる時ではない。

失敗だらけでいい。そうすればそのうち失敗のレパートリーも尽きてしまうだろう。
そしたらそこからは成功しかないじゃないか。

ここでふと思い出すユダヤの格言がある。
「水は溢れるまで飲まない」
コップの水をすぐ飲んでしまうのではなく、1滴1滴でも辛抱を重ねた末にコップから溢れるその時になるまで飲まない。
溢れるその時の水こそが真のおいしさなのではないだろうかと私も思える。
のどがかわいて死にそうだった経験が一瞬にして救われ、同時にまだ水はコップ1杯分も残っているという心のゆとりが持てる。

人間の年齢で例えるなら、今から水をため、溢れるときがやっと50歳前後だと私は考えてる。
だから50歳からの人生でいかにして豊かに生きれるかは、今の失敗や苦労からのビックプレゼントなのである。

ビックプレゼント、私はそれを手にするまで辛抱できるのか。

自分自身との我慢レース。


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